2023/07/12 11:45

高校3年生の春、電話が鳴った。晩御飯を食べている時だった。
箸を置いて、母が電話をとった。
「はい。ああ、ねえさん」
電話の相手は、母の姉だった。
ああ、伯母さんか。わたしはお皿の鮭に視線を戻した。
そこまではいつも通りだった。
母が急に「え!……なんで!?」と言って嗚咽をあげて泣き出した。
子どもにとって、親の涙ほど驚愕するものってないと思う。
びっくりして母を見たら、「とうさんが死んだって」って私に向かって言った。
母の「とうさん」とは、当たり前だがわたしの母方の祖父である。
とうさんが死んだって。
その言葉の意味を理解するのに数秒時間がかかって、意味を理解した瞬間からわたしも声をあげて泣いた。
本当に突然だった。交通事故だった。
いくつもの不運が重なって、あの時代にエアバッグが付いていない古い車に乗っていた祖父母は、猛スピードでコンクリートの壁に激突した。
ふたりとも救急搬送されたが、祖父は助からず、祖母は首の骨を骨折する重症。首より下が麻痺して完全に動かなくなった。
両親は四国出身で、祖父母は徳島県に住んでいた。
たくさんの田んぼと畑を持っていて、前年にはわたし、お米の出荷も手伝ったんだ。
そろそろさきえも田んぼを手伝う年頃になったねって。そう言われて。
農協に30kgの米袋をいくつも運ぶのをヒーヒー言いながら手伝って、帰りには憧れの軽トラックの荷台に寝転んで、真っ赤な夕陽を見て最高だなって。
おじいちゃん、おばあちゃんに会える夏が、徳島が、大好きだったのに。
後に見せてもらった事故現場の写真と嘘みたいにぺしゃんこになった車の写真に衝撃を受けた。
テレビのニュースにもなったらしい。ニュースを見て驚いて駆けつけたと、わざわざ大阪からお通夜に来てくださった方から聞いた。
わたしにとって、車の運転がこの世でトップ3に入るほど怖いものになった。
高校3年生の後半にもなると、受験が終わった同級生は車の免許を取り始めた。
大学生になってからも、それは続いた。みんな、少しでも長い休みがあると、免許をとる。
もちろん、私の両親も言った。
「はやく免許とってよ」
そう、私の住む地元は田舎。
否応無しに、車が必要な時がある。(いや、必要だけど、わたしはどこまでも自転車で行っていたけどね)
でも、免許を取る、すなわち車の運転が何よりも怖い。
ぺしゃんこになった車が、祖父母の文字通り変わり果てた姿が、脳裏に焼き付いて離れないのだ。
(もう20年くらい前なのに、いまだに鮮明に覚えている)
しかも、わたしはとっっても不注意な性格なのだ。(知っている方は知っている。何度もわたしが不注意で足をぶつけて骨折していることを)
小学生の時には、ゴーカートで事故ったこともある。(アクセルとブレーキが覚えられなくて、前の車に何度も追突した)
将来、東京に住もう。そうすれば車がなくても生きていける。都会だ。とにかく都会に住もう。
そう思っていたけど、いざ東京で働き始めて感じてしまった。
いや、東京しんどいな…。やっぱり自然が近くにある場所に住みたい。でも免許…
そんなことをもやもや何年も考えているうちに、猫ちゃんに出会ってしまった。
今までにも、何度か東京で賃貸を探したことがあったけど、条件をすり合わせるとうまくいかなかった。
猫に快適な家が見つからない。猫がたくさんいると、それだけで却下される。
担当の方は「探しておきますから!」と言ってみんな音信不通になった。
そんなこんなしているうちに、病気がちな猫ちゃんたちに日中のお世話役が必要になり、猫によりいい環境を考えると実家が1番になってしまった。
実家にいる理由は他にものっぴきならない個人的な理由があるけれど、1番は猫のためだ。
それから10年。猫の通院だけはどうしても車が必要で、そのたびに車をだしてくれと催促するわたしに、両親は「はやく免許をとれ」と言った。
「お父さんたちが運転できなくなったら、猫の病院、どないするん?」
「チャリに大きなカゴ付けて、乗せてく」
半分冗談、半分本気だった。
頭ではわかっていた。自分の猫ちゃんなのに、両親に頼ってはいられない…
何度か勇気をふりしぼって免許をとろうか…と教習所を調べてみたりもした。
そのたびに、動機が止まらなくなり、わたしは恐怖に慄いた。
はちゃめちゃに少ないけどバスは通っているし電車もある。
いざとなれば、なんとかなる。そう思っていた。そう言い聞かせてきた。
だけど、私が歳をとるように、両親も歳をとる。
いつのまにか、両親は高齢者だ。父はこの数年、免許を返納する話も出ている。
そんな2年前の今頃、猫ちゃんたちの面倒を見てくれている母から、「くぅがおかしい」とLINEがきた。
変な発作を起こし、呼吸困難に陥ったのだ。この間の誤嚥性肺炎の時のように、何度も覚悟した。
この時は本当に呼吸困難がひどくて、先生に早朝「くぅちゃんは死ぬんですか!?」って半泣きで電話したほどひどかった。
(ちなみに、先生は「いや、わかんないです」って言ってた。わたしの先生、めちゃくちゃ冷静で正直者。)
泡を吹きながら開口呼吸。酸素が吸えないということは命に直結してしまう。
この時、鼻咽頭狭窄症の診断がでたのだ。
2021年の夏、くぅちゃんが東京の大学病院で鼻咽頭狭窄症の手術をすることになった。
いざという時は都内にバスと電車を乗り継いで行こうかと思っていたけれど
本当にいざという時がくると、くぅちゃんの心身の負担が大きすぎて、車で行く選択肢しかなくなった。
この時は父が車の運転をしてくれて、なんとかなった。
でも、この時本気で感じた。
これは…このくぅちゃんの状況は、電車で行くのはかわいそうすぎる。拷問すぎる。
(ちなみに、くぅちゃんが元気な時にも、病院に電車で通おうかと思うんですけどって先生に相談したらとめられた。
くぅちゃんには負担が大きすぎるって。)
免許を…取らなければ…ならない……
つづく